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わがまち港北
わがまち港北
【大倉精神文化研究所】(水彩:髙井祿郎)

当協会評議員の(公財)大倉精神文化研究所の平井誠二先生と林宏美さんが地域を取材して執筆した郷土の情報です。
(毎月更新)

港北区の生涯学習と区民活動を支援する情報紙「楽・遊・学」にも掲載中です。

シリーズ わがまち港北 第232回
港北のお城と館 -その7、小机城の2-

小机城(こづくえじょう)の続きです。

文明10年(1478)太田道灌(おおたどうかん)に攻め落とされた小机城は、数十年後に小田原北条氏のお城となります。その間のことはよく分かりませんが、長尾景春(ながおかげはる)と家督を争った長尾忠景(ただかげ)がその家臣の矢野憲信(やののりのぶ)と共に一時小机城に在陣したらしいとか、小田原北条氏と勢力争いをしていた三浦氏の支配下にあったとか言われています。

(小田原北条氏時代)

山内(やまうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の抗争を利用して勢力を伸ばしてきたのが、小田原の北条氏です。北条氏は小田原から東へ勢力を広げ、三浦半島を拠点とする三浦氏と争いますが、永正(えいしょう)13年(1516年)に三浦氏を滅ぼし、現在のほぼ神奈川県全域を支配しました。この時、小机城も支配下に置いたと言われます。さらに大永(だいえい)4年(1524年)、第2代北条氏綱(うじつな)が扇谷上杉氏の当主朝興(ともおき)を江戸合戦で撃破し、帰陣した後に小机城を北条風に改修したようです。

こうして小机城は小田原城の支城となりました。その後、対豊臣戦に備えて天正(てんしょう)14年(1586年)以降に再改修されて、西郭(にしくるわ)、東郭、空堀(からぼり)などが整備されて現在のような構造(縄張り)になったと考えられています。

西郭は約40メートル四方の正方形をしており、つなぎの郭を挟んで、東郭は東西45メートル南北70メートルの楕円形をしています。約200年前に編纂された『新編武蔵風土記稿(ふどきこう)』(以下、風土記稿と略称)でも西郭を本丸跡と呼んでいます。ここの本丸広場が、後述する小机城址(じょうし)まつりのメイン会場になっています。東郭は二の丸跡と呼ばれていますが、これまでに小机城の本格的な発掘調査はなされたことが無く、東郭が本丸だとする説もあります。

小机城の空堀は上部の幅が約12メートルもあり、『江戸名所図会』は深さが6、7丈あまり(約18~21メートル)と記しています。現在は、深さが約12メートルになっています。篠原城の発掘調査で、空堀は深さの約半分が埋まっていたことが分かりましたので、同様ならば、戦国時代の小机城の空堀は深さ24メートル程もあったようです。

現在、小机城址には何も残っていないと思われるかも知れませんが、丘(城山(しろやま))全体が関東ロームを巧みに利用した土の城であり、全体を見ると建物以外はかなり原形をとどめているといえましょう。

ただ、全くの無傷ではありません。『戦国の城〈上〉』(学研、1992年)の著者西ヶ谷恭弘(にしがややすひろ)氏によると、昭和38年(1963年)に第三京浜道路の工事(第190回参照)で、「西曲輪(くるわ)の空堀と土塁(どるい)、搦手坂(からめてざか)を破壊……著者らは現場に赴(おもむ)いて、削られた土塁斜面から、ジグザグに折れ曲がる屏風折塀(びょうぶおれべい)の柱穴群を検出調査した」とのことです。また、西郭の東南の隅には井戸の跡がありましたが、昭和63年度(1988年度)の公園整備で跡形も無くなり、「虎口(こぐち)前方にS字状に残っていた土橋(どばし)は直線となり、馬出(うまだし)状の土橋外形の地形もかなり変形してしまった」のだそうです。こうして城の一部は破壊されました。しかし、かつて全国には城が25,000以上もあったと言われますが、小机城はその中では保存状態がとても良いのだそうです。

さて、小机城主は北条為昌(ためまさ)(氏綱三男)-三郎-氏堯(うじたか)-氏光(うじみつ)と続き、重臣の笠原越前守信為(えちぜんのかみのぶため)の一族が代々城代を勤め、その下に小机衆が組織されていました。永禄2年(1559年)奥書の『小田原衆所領役帳』には、小机衆として29人の武将の名と役高や郷村名(ごうそんめい)が記されています。小机衆は、多摩川以南の都筑郡(つづきぐん)・橘樹郡(たちばなぐん)一帯に広がっており、大曽根(おおそね)城、篠原(しのはら)城、大豆戸(まめど)城、矢上(やがみ)城、加瀬(かせ)城、井田(いだ)城、山田(やまた)城、茅ヶ崎(ちがさき)城、池辺(いこのべ)城、佐江戸(さえど)城、川和(かわわ)城、久保(くぼ)城(榎下(えのした)城)、恩田城、荏田(えだ)城などが小机城の支城として配置されていました。小田原北条氏は、相模国(さがみのくに)から武蔵国(むさしのくに)へと勢力を広げていく時に、小机城を最前線の戦略的拠点とし、小机衆を配置したのです。その後は地域支配のために交通の要衝を固める拠点の1つとして機能させました。しかし、領域が拡大するにつれて、小机城の役割は低下していったようです。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅びます。小机城は戦闘には巻き込まれることなく、無傷で開城し、徳川家康の関東入府(にゅうふ)のときに廃城になったといわれています。しかし、小田原攻めの頃にはすでに城は放棄されていたとみられるとの説もあります(平凡社『神奈川県の地名』小机城跡の項)。

江戸時代の城山は、幕府管理の山林となっていました。風土記稿の活字本には何だかよく分からない小机城蹟図が1枚だけ掲載されているのですが、将軍への献上本を見ると図は本来2枚あって、1枚には描かれている各場所の名称も記されています。

小机城址は、昭和52年(1977年)に市民の森に指定されました(第28回参照)。平成5年(1993年)からは小机城址まつりが始まり、第26回となる本年は4月15日に開催されます。武者行列が楽しみです。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所所長)

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